【906号】刑務所しか居場所がない人たち 学校では教えてくれない、障害と犯罪の話

2019-06-23

 

東京五輪チケットの当選発表があり、

悲喜こもごもの争奪戦が、あちこちで話題となっているようです。

 

皆さんは、いかがでしたか?

お目当ての競技を引き当てることはできたでしょうか?

 

私の周りでは、

「サッカーの準決勝が当たった!」とか、

「バスケで八村選手が観られるかも!」とか、

「まさかの陸上決勝が当たるとは!やったー!」

という興奮気味のコメントの数々。

おめでとうございます。

 

えっ? 私…ですか?

私早川はですね、オリンピックの生観戦にはまったく興味なし。

 

すいません。盛り上がりに水を差すわけではないのですが、

東京五輪はテレビ観戦で十分、といったところでしょうか。

 

いや、でも、野球をはじめスポーツは何でも好きなんですよ。

毎日、スポーツ新聞の隅から隅まで1時間はじっくりと読み込むほどですから。

 

ただ、もしかすると、プロ競技に比べてアマチュア大会に興味が薄いのかもしれません。

というわけで、どれだけ「非国民」と罵られようとも、

オリンピックへの関心は〝ほどほど〟程度なのかと、自己分析しております。

 

おそらく私自身が、アマチュアスポーツに本気で取り組んで来なかったからでしょう。

そう、恥ずかしながら私は、中学3年間、「帰宅部」だったのです。

入学以来はじめからずっと一貫して「帰宅部」だったという生徒は、

私早川一人だけだったと記憶しています。

「帰宅部の一人キャプテン」といったところでしょうか。

 

ですから、学生時代の3年間、いや、6年間、10年間を必至に汗と泥にまみれ、

一つのスポーツを極めてきた方々のことは、心から尊敬している私です。

情熱と努力を持って地道な練習で技術を磨き、チームワークを尊び、

勝負を諦めないタフな精神力を養ってきた、それらを継続する力には頭が下がります。

(文化部の方々も同様であろうと思います)

 

帰宅部であった私は、「何も成し遂げて来なかった」という後悔があったもので、

これまであまり公表してこなかったのですが、

正確に申し上げるなら、「幽霊・陸上部員」でした

いわゆるペーパー・ランナー(ペーパー・ドライバーならぬ)であった時期があり、

口頭で「部活、入ったよ」と言いながら、一日たりとも練習に出なかった2か月間。

 

その後、クラスメイトのK君に誘われ「1日剣道部員」にも…。

昭和の名作ドラマ「おれは男だ!」の森田健作のイメージに憧れ、入部したものの、

「うさぎ跳び」をずっとさせられただけの練習に嫌気がさしたことと、

「ぎんざNOW」というテレビ番組を観たかったこともあって、

すぐ翌日から、サボってしまったため、なんとなく行きづらくなり、

そのまま「フェイドアウト退部」という事態に…。

 

「早川、部活やめるってよ!」みたいな、

映画のタイトルのような言葉が交わされたどうか知りませんが、

そうして私の部活生活は「自然消滅」していったのでした。

 

とはいえ、どちらかといえば「運動は好き」で、むしろ得意でした。

小学校の時は、野球チームのレギュラー・ショートで3番バッター、

学校代表のリレー選手に選ばれたこともあったほどです。

 

中学の体育の成績もよかったですし。

中学全校のマラソン大会などがあると上位入賞していたくらいですからね。

 

なぜ、体を鍛えていない私に体力があったのかというと、

毎朝、遅刻寸前だった私は、中学校まで全力で走っていたからです(笑)

いったいどんな試練が功を奏すのか、人生、わからないものですね。

 

中2の時、懸命に走るその一部始終を「走れメロス」風の作文に書き上げたら、

「遅刻の帝王がこんな面白い作文書いたぞー!」と担任の西村先生にめっちゃ褒められ、

クラスみんなの前で、その作文が読み上げられたことがあります。

「いつものように東急ストアの角を颯爽と曲ると、そこには工事中通行止めの看板が…」

「校門手前20メートルまでヘロヘロになって辿り着くと、無情にも始業のベルが…」

「おお、友よ、セリヌンティウス次郎よ、もう体力の限界だ。許してくれ…」

という内容だったと思います(笑)

先生は、このわけのわからない不思議な作文を相当気に入ってくれたのでしょう。

西村先生に褒められたのは、後にも先にもそのときが「初めて」でした。

 

さて、では毎日の放課後に、私が何をやっていたかと言いますと、

まずは寄り道して、書店で「立ち読み」

主にドカベンなどの野球マンガを見て、気持ちの上では部活動をしていました。

ときには横溝正史や星新一の短編を丸っと読み切ることもあり、

本屋のオヤジに〝はたき〟でパタパタやられ、世間の冷たい仕打ちとも戦っていたのです。

大昔はよく見られた定番の光景ですね。

 

そして帰宅後、全盛期の「せんだみつお」が司会をしていた月~金の帯番組、

17時からの「ぎんざNOW」を欠かさず見て〝エンタメ〟の勉強も欠かしません。

特に、月曜日は「素人コメディアン道場」というコーナーがあり、

今でいう「M1グランプリ決勝」のようなレベルで、これが実に面白かったのです。

その証拠に、初代チャンピョンは関根勤、

2代目以降は、ハンダース(清水アキラ、アゴ勇&桜キンゾー、アパッチけん)、

竹中直人、小堺一幾、柳沢慎吾、とんねるず、など今もおなじみの錚々たる顔ぶれ。

 

そのほかアーチスト系でも、キャロル時代の矢沢永吉やフィンガー5が準レギュラー、

ダウンタウンブギウギバンド時代の宇崎竜童や、

清水健太郎の「失恋レストラン」もこの番組から生まれました。

荒井由実時代のユーミンが初めてテレビに出たのも「ぎんざNOW」。

たしか、サザンオールスターズのデビュー当時も出演していたはず。

アシスタントは、後に「コメットさん」で一世を風靡する大場久美子でした。

 

そうです、この番組が見たかったための「帰宅部」だったのです。

 

さらに、「ぎんざNOW」が終わると、ラジオ番組への投書タイム

そう、私はせっせと「ハガキ」を書いていました

面白いネタ作りに励んでいた日々。

 

ニッポン放送では、よく読まれてましたよ。

たびたび「賞金3000円」を郵便為替でもらったこともありましたから。

当時の貨幣価値からすると、かなりいいアルバイト(お小遣い)になりました。

 

「湯原正幸・児島美ゆき チャレンジリクエスト」という、

ダジャレを川柳や物語にして曲をリクエストする番組があったのですが、

この番組では頻繁にハガキが読まれていましたね。

桜田淳子、キャンディーズ、郷ひろみなど、曲名もよく覚えています。今でも。

番組内での私は、ほぼ準レギュラー扱いでした。

 

本名で投書していたので、翌日、クラスの女の子から、

「昨日、ラジオで名前が出てたね!」

と言われるのを生きがいにしていました。

 

いやはやホントに、四十数年前の古すぎる話題ですいません。

若い方には、何のことか、さっぱり分からなかったことでしょう。

 

皆さんが、まじめに野球やサッカーに汗を流していた青春時代とは、

まるでかけ離れた、ふざけた中学生活でした。

本当にお恥ずかしい限りです。

 

ただ、こうして歳を取った今となってみると、

多少は執筆など仕事の役に立っているのかな、と思うこともあります。

 

あっ、東京五輪チケットの話題から、

だいぶ外れてしまいましたね。

 

話を元に戻しますと・・・、

いやー、でも、

歴史に残る東京開催のオリンピックですからねー。

記念に何か一つくらいは、

生観戦しておくのも悪くないかもしれませんね。

 

どなたかのお誘いをお待ちしております(笑)

 

 

 

以上、前置きはこれくらいにしまして、

メインコンテンツに入ります。

 

本号も、お薦め書籍(703冊目)として、

ためになる一節を抜粋し、ご紹介いたします。

 

本日のテーマは、【真のコミュニケーション】です。

お役に立ちましたら幸いです。

それでは、どうぞ!

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私の本よりためになる「お薦め書籍」シリーズ No.703

『刑務所しか居場所がない人たち』

学校では教えてくれない、障害と犯罪の話 

刑務所がおうちになっちゃった!

堀の中は、社会の中で行き場をなくした人たちの

最後の避難場所――ヘンテコで悲しいこの国の現実

山本譲司著

大月書店

 

 

「あのお金は、お母さんが神様にあずけたんだ。

それを返してもらっただけ。だから、僕は悪くないよ!」

刑務所で出会ったAさんは、いつもこう言っていた。

 

彼は20代後半の男性。二度の窃盗罪で、2年6か月の懲役刑に服していた。

窃盗罪で懲役刑なんて聞くと、けっこうな大金を盗んだんだろうって思うかもしれないね。

でも、彼が盗んだのは合計300円。神社で賽銭どろぼうをしてしまったんだ。

 

Aさんは軽度の知的障害者で、子どものころは特別支援学級に通っていた。

両親は離婚し、ずっとお母さんと2人暮らしだった。

彼は、お母さんと初もうでに行ったときのことをよく覚えている。

賽銭箱に1000円入れたお母さんは、彼に言い聞かせた。

「神様にお金をあずけているんだよ。

困ったときに、きっと助けてくれるからね」

 

母子2人で寄り添うように暮らしていた。

だけど悲しいことに、お母さんは病気で亡くなり、彼はひとりぼっちになってしまった。

ほかに親戚も、頼れる友人もいないAさんは、障害があるために仕事が続かない。

否応なしにホームレス生活をするしかなかった。

 

そんなときに、お母さんの言葉を思い出したんだね。

「神様にあずけていたお金で助けてもらおう」って。

かつてお母さんと初もうでに行った神社で、賽銭箱をひっくり返した。

 

最初に盗んだのは200円。近くを通った人に通報され、すぐに逮捕された。

このときの裁判では、懲役1年6か月に執行猶予がついて釈放された。

執行猶予っていうのは、裁判で「懲役何年」とか刑が決まっても、

一定の期間中(執行猶予期間)に新しい事件を起こさなければ、

その刑を受けなくてすむといすう制度。

はじめての犯行のときや、被害が小さいときなんかによくある判決だ。

 

だけど、執行猶予がついたとはいえ、刑を言いわたされたんだから、

反省してもよさそうなのに、Aさんは違った。

「外に出られたから、やっぱり悪いことじゃないんだ」

そう確信し、また賽銭箱から100円盗んだ。

 

今度は執行猶予中の事件だから、釈放されない。

実刑判決を受け、刑務所に服役することになった。

 

Aさんのような軽度の知的障害者は、

人から言われれば、身のまわりのことはできるから、

一見、障害がないように見える。

だけど、善悪の区別がどこまでついているかはわからない。

 

二度目の裁判で、彼は裁判長に向かってきっぱりと言ったよ。

「まだ700円、神様に貸している」

その言いぶんは聞き入れてもらえなかった。

 

300円だって窃盗は窃盗だから、罪を償わなければならないのは当然だ。

でも、こういう軽い罪は、ふつうだったら刑務所に入るまでもない。

被害を受けた神社に心から謝って、

家族のもとへ帰るか、福祉施設に入るのが定番の流れだ。

 

だけど、Aさんは身寄りのない放浪暮らし。

知的障害があっても、福祉につながっていなかった。

彼は刑務所しか行き場がなかったんだ。

 

これは珍しい話ではない。

刑務所の中には、Aさんのように知的障害のある人が、おおぜいいるんだよ。

貧困とか悲惨な家庭環境とか、いくつもの悪条件が重なり、

不幸にして犯罪に結びついているケースが非常に多い。

 

彼らは、軽い罪を犯すことによって、

冷たい社会から刑務所へ避難してきたともいえるんだ。

 

(中略)

 

「あのときは、いったいどうなるかと思いました」

所長が「あのとき」と言うのは、東日本大震災が起きた2011年3月のことだった。

府中刑務所というと、数ある刑務所の中でも、

もっとも犯罪傾向の進んだ受刑者たちを収容するというイメージが強い。

凶暴な受刑者が集まっているのでは……と。

でも、その実態は、まったく違った。

 

僕が訪問したとき、府中刑務所には、約1800人の日本人受刑者が収容されていた

(ほかに約400人が外国人の受刑者)。

日本人受刑者のうち、なんと700人以上が精神か知的に障害がある人で、

約600人が身体に障害がある人だったんだ。

 

その障害者率の高さを知って、ほんとうに驚いたよ。

所内には五つの養護工場があるけど、それでもまだ足りないくらいだそうだ。

 

障害のある受刑者がいるのは養護工場ばかりじゃない。

刑務官の手に負えなくなった人は、「処遇困難者」として、

通称「レッドゾーン」と呼ばれるところに隔離される。

そこは、暴れたり叫んだりする人があとをたたず、

一日のうちに何度も非常ベルが鳴り響くエリアなんだ。

 

所長さんの話を続ける。

「あの震災時、レッドゾーンの収容者たちに対して、いちばん心配したのは、

計画停電のときです。いつも以上にさわぎだすんじゃないかと思って」

 

でも、その心配は、とりこし苦労に終わったらしい。

「わたしも含めて、たえずレッドゾーンを巡回していたんですが、

意外なことに、みんなおとなしくて、びっくりするほど静かだったんです」

 

電気が通じるときは、ずっと震災のようすをテレビで見せていたらしい。

所長さんは、こう振り返った。

「大変なことが起きているのに、さわいだりしちゃいけない、

という意識はあったんでしょう。

思い障害のある人たちでもそれがわかるんだと、妙に感心させられました」

 

府中刑務所では、震災の日から20日間以上、一度も非常ベルが鳴らなかったどころか、

受刑者から「ストーブをつけなくてもいいですよ。できれば灯油は東北に送ってください」

という申し出があったのだそうだ。

 

(中略)

 

断言しよう。障害のある人たちだって、かならずコミュニケーションができる。

僕は、施設で働くなかでよくわかった。

相手の訴えたいことをなんとしても聞きたい。

こっちの気持ちをなんとしても伝えたい。

そう強く思って接すると、ちゃんと意思疎通ができる。

障害のために、言葉を語らない人たちもね。

 

たぶん、ひと言ふた言のやりとりじゃわからない。

むずかしいけれど、お互いの気持ちを共感することができると、

コミュニケーションが前に進む。

 

いちばん共感しやすいのは「悲しい」という感情だ。

障害のある人は、悲しい思いをたくさん経験しているから、他人の悲しみに敏感だ。

あの府中刑務所のレッドゾーンに収容されていた彼らも、きっとそうだったんだと思う。

 

知的障害のある人の場合、とくに、お母さんが悲しんでいる気持ちはすぐに察する。

お母さんの表情が少しでも曇れば、彼らも落ち着かなくなる。

そんなとき「悲しいね」「つらいね」って声をかけていると、

いつしか心を開いてくれる。

 

それから、障害のある人の多くは、自分の気持ちを伝えようとしているのに、

それができないつらさや、SOSを求めているのに、

だれも手を貸してくれない心細さを、しょっちゅう感じている。

 

電車の中で、ウワーッ!と叫んでいる人がいたら驚くだろうけれど、

本人はつらさを表現しているだけかもしれない。

 

パニックを起こす原因は、人によってさまざまだよ。

健常な人は、ちょっとくらいいやなことがあっても、いつのまにか忘れてしまうよね。

脳に忘却という機能があって、忘れることで自分の身を守るんだ。

でも、障害のためにそれができない人もいる。

つらいことが生々しい映像としてずっと頭の中に残るんだ。

だから、小学生時代に石を投げられた悔しさとか、

かわいがっていた犬が死んだ悲しさなんかが、

大人になってもひんぱんによみがえって、その人を苦しめることがある。

 

もし、障害のある人と接する機会があったら、

「どんな気持ちでいるのかな?」

「何がつらいのかな?」って想像してみてほしい。

 

障害のある人を理解するっていうのは、

腫れもののようにあつかうことでも、

むやみに親切にすることでもない。

 

自分と同じ目線で接し、彼らの立場になって考えてみることだ。

周囲の人と気持ちを共有できた経験は、

障害のある人にとって、たいせつな成功体験になる。

 

そうやって、障害のある人に優しい社会、

つまり、君も含めてみんなを優しく包みこむ社会が築かれていくんじゃないかな。

 

(中略)

 

認知症のある人は、ご飯を食べたことを忘れてしまって、

「おなかがすいた」と言うことがある。

そんなとき、ふるさとの会のスタッフは、決して「さっき食べたでしょ」とは言わない。

 

だって、本人は食べていないと思っているのに、人から「食べた」って言われたら、

「みんな自分をだまそうとしているんじゃないか……?」って勘ぐりたくなるでしょ。

 

だから、「一緒に作りましょうか」

「そうですね、準備するので待っていてくださいね」

とか言うんだ。そのうち、

「やっぱり、おなかいっぱいだった」とか「もういいや」ってなることが多い。

 

精神障害のある人なら、幻覚が見えたり、幻聴が聞こえたりすることがある。

だれもいないのに「いまそこに人がいた」と怖がったり、

何も言っていないのに「あの人が自分の悪口を言う」と訴えたりするんだ。

 

そんなときにも「そうだったんですね、困りましたね」

「もうだいじょうぶですよ」と声をかける。

 

本人の世界を否定するんじゃなくて、そっと寄りそう。

それができれば、障害があっても公の福祉に頼ることなく、暮らし続けられる。

 

(中略)

 

刑務所を出所した人が、社会にとけこんでいくためには、

住まい、仕事にならんで、もうひとつ欠かせないものがある。

 

答えは「役割」だ。

人は、だれかに必要とされるから生きていようと思える。

自分が果たすべき役割があるから、がんばっていける。

それは、お金をもらう仕事じゃなくたってかまわない。

 

Lさん(30代・男性)は、軽度の知的障害で、幼いころから父親に虐待を受けていた。

窃盗罪で服役したいたけれど、周囲に心を閉ざし、刑務所の中でもだれとも口をきかない。

出所後は生活保護を受けて、

知的障害のある人が共同で暮らすグループホームに住んでいた。

 

そこには高齢の入居者もいる。

彼は、だれに頼まれたわけでもないのに、高齢者のお世話をするようになった。

グループホームのルールを忘れた高齢者が困っていると、一生けんめいに教える。

いつのまにか〝頼れる管理人さん〟のような立ち位置になった。

 

Lさんは、少しずつ笑顔を見せるようになり、

高齢者施設でボランティアをするようになった。

 

ほどなくして、生活保護をやめた。

なぜって?

結婚したい人ができたからだ。

 

同じく高齢者施設でボランティアをしていた女性と、恋に落ちた。

彼女と結婚し、新しい家庭を築くために、

生活保護を脱して自活できるようになろうとしている。

目標は、高齢者施設の事業者になることだ。

 

出所からボランティアを始めるまで約2年。

いまはもう、だれも彼を障害者とは思っていない。

 

 

 

令和元年6月23日(日)

 

【編集後記】

 

コミュニケーションの取り方は、

障害者に限らず、健常者同士においても、

同じことがいえると思います。

 

すべての人々が、安心して暮らせる社会になってほしい、と願うばかりです。

また私たちにも、そうした勇気ある行動が必要なのではないでしょうか。

 

 

それではまた、来週号をお楽しみに!

 

本日も最後までお読みいただきまして、

ありがとうございました。

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早川勝

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