【857号】幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵「本当の幸福」とは何か

2018-01-21

 

テニスの大坂なおみ選手が全豪オープンで快進撃を続けています。

ベスト16進出は、杉山愛さん以来18年振りの快挙なんだとか。

 

長身から躍動感たっぷりに打ち下ろすあのスーパー弾丸サーブが炸裂し続ければ、

これからまだまだ格上の選手を破って上位進出が狙えそうです。

優勝さえも現実味を帯びてきました。

 

昨年の全米オープンでは、敗れたゲーム中に「もう、嫌だ」と口に出すなど、

メンタル面の未熟さを露呈していましたが、

今大会では、「ゲームを楽しむ」「この機会を楽しみたい」といった、

エンジョイ発言が随所に目立つようになっています。

 

いったい彼女の精神面が成長した要因は何なのでしょうか。

 

それは、今季から「コーチ」を変えたこと。

セリーナ・ウィリアムズ(4大大会での優勝23回)の練習パートナーを務めていた、

ベージン氏とコーチ契約を結んだらしい。

 

大坂なおみ選手は、技術・体力も、これから伸び盛りの20歳。

「和製ウィリアムズ」として世界に君臨する日もそう遠くないかもしれません。

 

 

さて、私早川勝も、ただ今、試練のゲームを楽しんでおります。

 

歯の矯正をはじめて2か月余りが経とうとしていますが、

かなり歯並びが動いてきました。

「こんなにも動くものなのか」と、

思っていたよりも早い動きに驚いています。

 

あれからも矯正器具の「違和感」と「不快感」はあまり変わりませんが

(食事ではまともに物を噛めず、ろれつがうまく回らないことも…)、

ここへきて「楽しさ」が増してきました。

 

以前にもお伝えしたように、矯正をはじめた頃は、

「望むゴールへ向かってゼロコンマ数㎜ずつでも動いている」と想像するだけで

人生が変わっていく期待感にワクワクしたものでしたが、

今はこうして目に見えて実際に歯が動いていく〝幸せ〟を享受しているため、

まさに笑顔があふれて止まらない毎日を過ごしております。

 

一日で100回以上は鏡を見て「イーッ」としてしまうほどです。

 

ここ最近は、左右と前後の歯の矯正に加え、

歯を上下にも動かすために、強力な輪ゴムを上と下の歯に引っ掛けて、

毎日500回以上噛むようにと、歯科医(コーチ)より指示されています。

眠る時でもゴムは装着したままです。

 

そんな話を皆さんにすると、

「涙ぐましい努力ですね」と気の毒がってくださる方も多いのですが、

実はそうでもなくて、これがまた「楽しい」のですよ。

 

50年も悩み続けてきた「問題」が着々と解決に向かっていると思うと、

どんなに苛酷な修業にも耐えられるものなんですよね。

それはもう「希望」に満ち溢れた日々でございます。

 

やはり何事も、投げやりにあきらめたまま、問題を放置してはいけませんね。

「もう、こんな年だから…」は、関係ないことが分かりました。

 

歯の矯正で、私の人生観は変わりましたよ。

 

あなたも、ぜひ、お試しあれ。

 

 

 

以上、前置きはここまでといたしまして、

メインコンテンツに入ります。

 

本号も、お薦め書籍(685冊目)の中から、

ためになる一節を抜粋し、ご紹介いたします。

 

本日のテーマは、

【幸福】

です。

お役に立ちましたら幸いです。

それでは、どうぞ!

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私の本よりためになる「お薦め書籍」シリーズ No.685

『幸福の哲学』アドラー×古代ギリシアの智恵

「本当の幸福」とは何か

超ベストセラー『嫌われる勇気』の著者が、じっくり、深く、考えた。

岸見一郎著

講談社現代新書

 

 

 

成功することが、幸福に生きることを保証してくれるわけではない。

この場合の成功とは有名大学に進学し、一流企業に就職するというようなことだろうが、

そのような人は子どもの頃から、

まわりの大人に成功することが大切だと吹き込まれている。

家族や親戚に成功した人がいれば、そんな人になれといわれる。

かくて、何かに「なる」ことが大切なことだと思ってしまう。

 

今「ある」ところにいてはいけなくて、どこかに向かっていなければならない。

当然、後ろに退くことなどあってはならない。

三木清は、成功は進歩に関係するといっている(『人生論ノート』)。

かつての右肩上がりの経済成長率のグラフが連想されるところである。

 

三木は、成功は「過程」に関わるが、

それに対して、幸福には、本来、進歩というものはなく、

「幸福は存在に関わる」といっている。

何も達成していなくても、何も所有していなくても、成功しなくても、

人は幸福になることができるのだ。

 

より正確にいえば、成功しなくても幸福に「なる」のではない。

幸福で「ある」のである。

それが「幸福は存在に関わる」ということである。

 

(中略)

 

ある人との出会いがその後の人生を変えたという人がいる。

しかし、これとてその出会いがその人の人生を決めたというわけではない。

偶然、あるいは、幸運でしかなかった出会いを、その人にとって後になって

意味あるもの、必然のもの、運命的なものにするかしないかは自分次第である。

 

電車に乗り合わせた人との出会いは偶然のものであり、

その出会いが特別の意味ある出会いになることはないだろう。

もしもある出会いに何か特別の意味づけがされなければ、

出会ったことそのものも忘れられてしまうだろう。

 

高校生の時に初めて、「邂逅」という言葉を先生から教わった。

きっかけは偶然であっても、それを「縁」だと思えるような出会い、

また、出会いが偶然ではあっても、その出会いに意味を見出し、必然的な出会い、

会うべくして会ったと感じられるような出会いを邂逅という。

 

ただの出会いを邂逅にまで高めるためには、出会う側の準備が必要である。

 

啐啄同時という言葉がある。

鶏の卵が孵る時、雛が卵の中から殻を突いても、それだけでは殻は破れない。

雛が突くのと時を同じくして、母親が外から殻を噛み破らなければならない。

その呼吸がぴたりと合うことをいう。

 

ある出会いの偶然をきっかけとして、人と人との出会いが

邂逅にまで高められる可能性はあるだろう。

だがそのきっかけ自体は偶然にすぎず、たとえ出会いはあったとしても、

こちら側に準備ができていなければ、

その後の人生を変えうるような意味のある邂逅とはならない。

 

(中略)

 

さらに、幸福であると「思われる」ことには意味はなく、

実際に幸福で「ある」のでなければ意味がない。

実際に幸福で「ある」人は、他の人には幸福には見えないかもしれないとしても。

 

プラトンは『国家』の中で、ソクラテスに次のように語らせている。

「正しいことや美しいことの場合は、多くの人はそう思われることを選び、

たとえ実際にはそうでなくても、とにかくそう思われることを行い、

そう思われるものを所有し、人からそう思われさえすればよいとする人々が多いだろうが、

善いものの場合は、もはや誰一人、自分の所有するものが

ただそう思われているというだけでは満足できず、実際にそうであるものを求め、

たんなる思われは、この場合、誰もその価値を認めないのは明らかではないか」

 

幸福であると思われるだけでは何の意味もない。

実際に幸福でなければならない。

成功して富を得たとすれば、その富の額は測れるという意味では量的であるから、

その額によって富を所有する人が幸福に見えるかもしれない。

だが、富を所有していることが本当に幸福なのかといえば、決してそれは自明ではない。

 

(中略)

 

アドラーは、「あらゆる悩みは対人関係の悩みだ」といっている。

実際、人との関わりは摩擦をもたらさないわけにはいかない。

そのようなことを経験するくらいなら、

いっそ誰とも関わらないでおこうと考える人がいてもおかしくない。

 

しかし、生きる喜びや幸福もまた、対人関係の中でしか得られないのも本当である。

 

生きる喜びや幸福は対人関係の中でしか得ることができないのであれば、

対人関係の中に入るしかない。

しかし、傷つくこともあることを思えば、対人関係に入るのには勇気がいる。

この勇気のない人が、他者を敵と見なし、対人関係の中に入っていこうとしないのである。

 

逆にいえば、他者を仲間と思えれば、対人関係の中に入っていく勇気を持つことができる。

それでは、この勇気はどうすれば得ることができるのだろうか。

 

アドラーは次のようにいっている。

「私は自分に価値があると思う時にだけ、勇気が持てる」(Adler Speaks)

 

ここでいう「勇気」は対人関係の中に入っていく勇気である。

どうすれば自分に価値があると思えるかは後で考えるが、

生きる喜びや幸福は対人関係の中でしか得られない以上、

対人関係の中に入るためには他者を敵ではなく、仲間だと見なければならない。

 

(中略)

 

二人の関係が行き詰った場合、どちらかが一方的に悪いということはない。

 

車の保険の場合、止まっている車に他の車がぶつかったのであれば、

ぶつけた側に全面的に非があるという判断が下されるだろうが、

双方が走っていたのであれば、どちらにも過失があったとされることが多い。

 

そのように、対人関係も人間性や性格の問題ではなく、

関係の問題と見た方が問題の解決につながりやすい。

 

では、どのような努力をしなければならないかといえば、

コミュニケーションをよくする努力である。

愛する二人は愛し合ってさえいれば関係はうまくいき、

コミュニケーションも自動的によいものになると信じて疑わない。

だが、愛の感情があるからといってコミュニケーションがうまくいくというわけではない。

 

(中略)

 

愛の関係でも、二人の関係をよくする努力をしないで、

ただ人から愛されることを待っているだけでは、二人の愛は育まれない。

 

花を咲かせたいのであれば、水をやらなければならない。

花に水をやることが、花を育てる時の責任である。

 

ただ相手から愛されることを待っているだけでは愛は成立せず、

あるいは、傷つくことを恐れて対人関係の中に入っていなければ、

幸福になることはできない。

 

相思相愛の恋愛に憧れる人は多いが、恋愛は育んでいくものである。

 

相思相愛であればよい関係が築けるというのであれば

恋愛は、始まった途端に終わるだろう。

 

ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムは

「配慮」を愛の一つの要素としてあげている。

 

「もしある女性が花を好きだといっても、

彼女が花に水をやることを忘れるのを見てしまつたら、

私たちは花に対する彼女の『愛』を信じることはできないだろう。

愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。

この積極的な配慮のないところに愛はない」(『愛するということ』)

 

「愛の本質は、『何かのために働く』こと、

『何かを育てる』ことにある。

 

愛と労働とは分かちがたいものである。

人は、何かのために働いたらその何かを愛し、

また、愛するもののために働くのである」(前掲書)

 

フロムは、愛という名詞は愛するという、人の活動を抽象したものにすぎないのに、

元の人から切り離されてそれ自体で実体化されてしまったと指摘する。

 

活動や過程であれば、それを持つことはできない。ただ経験されるだけである。

愛の経験は不断に流れ、刻一刻と変化する。

一度、誰かを愛せば愛が成就するわけではない。

愛は不断に変化しているので、

ちょうど花に水をやるような努力をして愛を更新していく努力が必要とされるのだ。

 

フロムは、人間が生きている上での二つの基本的な存在様式である「持つ」ことと

「ある」ことを区別している(『生きるということ』)。

 

「はじめに」でも述べたが、母が脳梗塞で倒れ、長く意志がないまま病床にあった時、

私はこんなふうに動けなくなった時に、

お金や名誉を持っていても何の意味もないではないかと考えた。

 

フロムの「持つ」と「ある」の区別は、この問いに答える鍵になる。

「もしも私が私の持っているものであるとして、

そして私が持っているものがすべて失われたら、その時、私は何者なのか」(前掲書)

 

「しかし」とフロムはいう。

「ある」様式においては、持っているものを失う心配も不安もない。

なぜなら、私とは、持っているものではなく、「ある」ものだから、と。

 

「持つことは、何か使えば減るものに基づいているが、

あることは実践によって成長する」(前掲書)

 

幸福もまた「ある」。

一般に幸福を構成すると考えられている要件(お金、地位、名誉など)は、

持つものなので失われる。

だが、「ある」ものである幸福は失われることはない。

 

(中略)

 

他者が自分をどう見るかは、自分で決めることはできない。

他者に自分の価値を認められたいと思うのであれば、建設的な努力をするしかない。

そのような努力もしないで、他者から尊敬されたいと思うのは笑止である。

 

尊敬と愛は強制できない。

「私を愛しなさい」「私を尊敬しなさい」と強制したからといって、

誰にも尊敬されることはないし、愛されることもない。

 

尊敬される努力をしないで尊敬されたい、自分の価値を認められたいと思う人は、

他者の価値を貶めることでこの欲望を充たそうとする。

アドラーはこれを「価値低減傾向」といっている。

他者の価値を貶めることで、相対的に自分の価値を高めようとすることである。

 

部下を理不尽に叱りつける上司はこの例である。

そのような上司は、部下を「支戦場」、すなわち本筋ではないところで叱りつける。

部下のあれやこれやの失敗に対して叱るのではなく、

部下に対するいじめや嫌がらせである。

 

なぜ上司が部下を理不尽に叱りつけるかといえば、

仕事では自分が無能であることを知っているので、

そのことを部下に見抜かれないように、部下を叱りつけるのである。

 

部下が落ち込めば優越感が持てる。

勇敢な部下は上司に刃向かってくる。そのような部下を屈服させると、

いよいよ優越感を持てる。

 

部下を叱りつけることで感じる優越感は劣等感の裏返しである。

本当に有能な上司はこのような屈折した優越感を持とうと思わないし、

部下を理不尽に叱りつけることもない。

 

(中略)

 

何かが実現しさえすれば本当の人生が始まる、そう考えている限り、

今は仮の人生、準備期間でしかなくなる。

 

だが、今こそが本番で、リハーサルの時ではない。

 

そもそも、その何かが本当に実現するとは限らない。

中学受験を目指す小学生がいる。彼〔彼女〕らは成績がよく、一生懸命勉強しているが、

それでも、必ず合格するとは限らない。

それでは、合格しなかったら、受験勉強をしたことは無意味になるのだろうか。

あるいは、受験勉強をしていた時が無意味になるかといえば、そうではないだろう。

 

結果として不合格になったとしても、

受験勉強をした時に学んだことは必ず後になって役に立つはずなので、

決して無駄になるわけではないだろう。

 

今という時を後日のための準備期間と見なすことに加え、

ある一つの目標を達成するために他のすべてのことを犠牲にすることにも問題がある。

 

寝る時間を惜しんで勉強に打ち込むということが

人生のある時期にはあってもいいと思うが、

勉強以外の他のことは何もしないというのであれば、

そのような人生は、かなり不自然になるだろう。

 

子どもに親が、「あなたは本当は頭がいい子なのだから、

頑張りさえしたらいい成績が取れるのよ」というようなことをいえば、

それで子どもが勉強する気になるかといえば、むしろ勉強する気にはならないだろう。

 

なぜなら、親からそのようにいわれている子どもは

「勉強すれば」という可能性の中に生き、

実際に勉強してもいい結果が出せないという現実を受け入れられないからである。

 

今は職場の上司と折り合いが悪く、上司に認められないから出世できないが、

いつか本気を出せばいつでも出世できる、

きっとまわりの人を見返してやるというようなことを言う人の場合も同じである。

 

いつかではなく、今、本気を出すしかないはずだが、

そんな人は、本気を出しても出世できないという現実に直面したくないのである。

 

(中略)

 

実際に挫折することがなくても、何かをしようとした思い立った時、

思っていたよりも困難なことがわかることはあるだろう。

 

アドラーは困難について、次のようにいっている。

「困難は克服できない障害ではなく、

それに立ち向かい征服する課題である」(『個人心理学講義』)

 

初めから克服できない障害と見れば、困難を克服しようともしないかもしれない。

だが困難とはそれに立ち向かい征服する課題であると見れば、

最初からどうすることもできないと断念することもないだろう。

 

たとえ困難を克服できず、目指していたことを達成できないとしても、

克服のための努力をすることに意味がある。

 

アドラーは「誰でも成し遂げることができる」といっている(前掲書)。

これら対しては、遺伝のことなどを考えれば、

何でも成し遂げることなどできないという批判がされてきた。

 

しかし、アドラーは、才能や遺伝などを持ち出すことで、自分はできない

という思い込みが生涯にわたる固定概念になることに警鐘を鳴らしたのである。

そうなれば、どんなことでも課題から取り組まないことの理由にすることができるからだ。

 

アドラーは、古代ローマの詩人であるウェルギリウスの

「できると思うがゆえにできる」という言葉を引いている(『子どもの教育』)。

 

アドラーは人間の能力は無限だというようなことをいおうとして

ウェルギリウスを引いているのではない。

自分を過小評価することの危険を説いているのである。

 

自分を過小評価すると「もう追いつくことはできない」と信じてしまうことになる。

追いつくことはできないことを正当化するために

自分を過小評価するというのが本当である。

 

(中略)

 

苦しみや悲しみが人を打ちのめすほどのものであっても、

これからも生き続ける以上、いつまでも悲しんでばかりはいられない。

むしろ、現実を直視し、

その現実の中でどのように生きていけばいいのかを考えなければならない。

 

しかし、この苦しみはただ苦しいのではなく、

鳥が空を飛ぶために必要な空気抵抗にも喩えることができる。

 

鳥は真空の中では飛ぶことはできない。

あまりに抵抗が強ければ鳥は風に押し戻され飛ぶことはできないが、

抵抗があればこそ、飛ぶことができるのである。

 

この世の様々な出来事のすべてに意味があると見て、

苦しみを克服し、悲しみを癒そうとすることがある。

しかし、何の罪もない人がたまたまその場に居合わせたというだけで、

暴漢に殺されるとか、若くして病に倒れるというようなことには、

とても、何か意味があるとは思えない。

地震や津波の犠牲になることも同じである。

 

それらはあまりにも理不尽であり、

しかもその理不尽で悲惨な出来事を完全に防ぐこともできない。

もしも、起こる出来事に何か意味があるのであれば、

今のこの世界がそのままで肯定されることになってしまう。

 

しかし、実際のところは、この世界はさまざまな悪に満ちている。

理不尽な出来事に肯定的な意味づけをして、悪から目を逸らすのは欺瞞である。

 

にもかかわらず、そのようなつらい目にあっても、

苦しみや不幸を乗り越える力をたしかに人は持っている。

 

そのような力と勇気を得て、不条理を超えるところに、

人生の意味を見出すことができる。

 

かつて、私が病に倒れた時、病気になったことそれ自体には

何も意味を見出すことはできなかった。

しかし、そこから立ち直る過程で多くの人の助力を得、人の優しさに触れたことで、

それ以降の自分の生き方ははっきりと変わった。

 

(中略)

 

さて、ここまでの考察で、幸福とは何かという問いに対する答えは

次の方向にあることが見えてきた。

 

まず、幸福は幸運とは違うということ、

人は何かの出来事によって幸福になるのでも、不幸になるのでもないということ。

 

すでに人は今ここで幸福である。

 

このことは、ちょうど人の価値が生産性にではなく、生きていることにあり、

今のままの自分以外の何者かにならなくてもいいということに呼応している。

 

幸福を求めて旅だったのにどこにも幸福はなかった。

失意のうちに家に戻ってきたら、そこに初めから幸福があった。

 

遠くに、あるには人生の先に幸福を見出そうとしなくてもよかったのである。

 

 

 

2018年1月21日(日)

 

【編集後記】

 

メジャー球団からオファーを待つイチロー選手が、

いよいよ日本球界へ復帰するのではないかという報道が

にわかに現実味を帯びてきました。

 

となれば行く先は、古巣であるオリックス・バァファローズが濃厚

すでにもう44歳の超ベテランではありますが、まだまだ衰えていません。

日本でなら多くの出場機会に恵まれ、さらなる記録更新が期待できそうです。

本当に楽しみですね。

 

どちらにせよ、このまま引退だけはしてほしくありません。

カムバック!我らがイチロー選手!

 

 

では、また来週!

 

本日も最後までお読みいただきまして、

ありがとうございました。

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早川勝

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