【815号】自閉症のぼくが「ありがとう」を言えるまで 会話のできない重度自閉症の15歳が文字盤でつづる全米で大絶賛されている手記

2016-12-03

 

先々週号でお伝えした「テレビ出演」の件ですが、

やっと番組ホームページにアップされたようです。

 

放送後すぐに見られなかったようで…。

お待たせしてしまい、すいませんでした。

 

ぜひ、ご覧ください。

「賢者の選択 Leaders」↓

http://kenja.jp/database/mov.php?tar=569

 

さて、

話は打って変わって…、

 

3日前、私宛てに一枚のハガキが届きました。

 

「スプリング、ハズ、カム」

という映画の試写会への招待状。

 

いや、待てよ…。

しかし、私にはまったく心当たりがありません。

 

「マスコミ試写のご案内」が、

なぜ、私宛てに届いたのか?

 

しばらく、首を捻っていたのですが…。

 

よくよく映画の内容を読んでみると、

むむむっ?

「吉野竜平」監督作品、

とあるではありませんか。

 

あれ?この名前はもしや?

 

あっ、そうか、と、思い当たりました!

 

そうなんです。

実は、吉野竜平監督というのは、
今年はじめ、私早川と一緒に、
「ショート・ムービー」を制作した監督さんだったのです。

 

いやー、驚きましたよ。

弊社の映像を制作してくれた監督さんが、
まさかメジャーデビューを果たすとは!

 

私早川の拙い脚本&脚色6本の「感動ストーリー」を

素晴らしい映像に仕上げてくれた監督さんでした。

 

どおりでそのショート・ムービーが「大好評」だったわけですよね。

 

そんな実力派の監督さんに対し、
撮影後の「編集」にまで口も挿んだ自分を振り返り、
「なんと失礼なことをしてしまったのか」、

と、穴があったら入りたい気持ちでいっぱいです(笑)

 

現在では、新チャネルの採用・教育・販売ツールとして、

その映像は様々な場面で活用されています。

 

メジャーデビュー前の監督と共に、
いくつかの作品を手掛けることができたことは、
心の底から誇らしく感じますし、

一人のミーハーな映画ファンとして、舞い上がっております。

いやはや、とにかく、感動・感激です。

 

えっ?
ところで、いったい、
どんな映画でメジャーデビューしたのかって?

 

はい、それでは、

コチラをご覧ください。予告編です↓

https://www.youtube.com/watch?v=MIAb6NJD85U

「スプリング、ハズ、カム」

第28回 東京国際映画祭 

日本映画スプラッシュ部門出品作品

 

私早川にとって興味深いのは、

宮部みゆきミステリー「ソロモンの偽証」の怪演が強烈だった、
石井杏奈(E-girls)主演ということ。

「四月は君の嘘」では広瀬すずの親友役や、
川村元気原作の「世界から猫が消えたなら」でも

確かな演技力を魅せる、今まさに旬な若手女優です。

ポカリスエットのCMでも存在感が光っていましたね。

 

その石井杏奈ちゃんの父親役として、
落語界の鬼才、柳家喬太郎がダブル主演。

娘を知る、父を知るための可笑しくせつないロードムービー。

男女問わず、どの世代の方も楽しめる作品のようです。

 

2月18日~新宿武蔵野館ほかで公開されます。

現在、リニューアル工事のため休館中の新宿武蔵野館ですが、

来春、新しく生まれ変わった新宿武蔵野館で

ぜひ皆さんにも「スプリング、ハズ、カム」を楽しんでほしいですね。

 

その後、全国順次公開予定とのこと。

 

映画の感想については、
試写を鑑賞後、公開前までに、
改めて皆さんへお伝えしたいと思います。

 

 

 

と、前置きはこれくらいにしまして、

メインコンテンツに入ります。

 

今週も、お薦め書籍(674冊目)の中から、

ためになる一節を抜粋し、ご紹介いたします。

 

本日のテーマは、

【「できること」を磨く】

です。

お役に立ちましたら幸いです。

それでは、どうぞ!

↓↓↓↓↓↓↓

私の本よりためになる「お薦め書籍」シリーズ  No.674

『自閉症のぼくが「ありがとう」を言えるまで』 

会話のできない重度自閉症の15歳が文字盤でつづる、

全米で大絶賛されている手記

この本で、世界は自閉症の「真実」を知った

いつも手をぱたぱたさせ、へんな声をあげている。

考えていることが口に届かない。

それでも、ぼくには伝えたいことがある。

 

イド・ケダー=著 入江真佐子=訳

飛鳥新社

 

 

一日か二日黙ってすごすことは、だれでも想像できる。

じゃあ、一生ずっと沈黙を通す人生を想像できるだろうか?

 

この沈黙とは書くこと、身ぶり、

言葉以外のコミュニケーションも含む、「完全な沈黙」だ。

 

これこそ会話のできない自閉症者が一生すごす世界なのだ。

希望がうすらぐのもむりはない。

 

それでもがまんしてABA(行動療法)や

フロアタイム(自閉症治療に焦点をあてた遊び)に取り組むけれど、

どれもなんの効果もない。

セラピストさんには助けてもらえない。

 

自分の頭がまともだということを知っているのは自分だけなのだ。

 

断言できるけれど、これは一種の地獄だ。

 

専門家の先生たちはスティムの管理や、決まりきったドリルや、

粘土のおもちゃを探すようなくだらない遊びばかりさせる。

何度も何度も、いつまでも。

 

でも先生たちはコミュニケーションのしかたを

一度も教えてくれなかった。

 

ぼくは心の中で先生たちに叫んでいた。

「ぼくに必要なのはコミュニケーションなんだ!」

 

先生たちは一度もこの叫びに耳を傾けてくれなかった。

それが沈黙の世界だ。

 

ぼくは幼いころから字が読めた。

書くこともできた。

ただ指が不器用すぎてそのことを示せなかった。

 

学校ではABCのテープを何度も何度も聞かされ、

1+2=3の足し算を何度も何度もやらされてすわっていた。

 

悪夢だった。

心底うんざりしていた。

 

そのせいでぼくの内側は死んでしまった。

なんの希望もなかったから、

ぼくの内側はゾンビみたいだった。

 

七歳のときに変化があった。

お母さんと一緒にすわって、誕生日パーティーの招待状を作っていた。

字を書けるように、お母さんはぼくの手を支えていた。

 

ぼくはお母さんの手の下で字をつづっていった。

ふと、お母さんはぼくの手が勝手に動いているのを感じとり、

ということはこの手は字を書けるんだと気づいた。

 

ぼくたちは一緒に書いた。

お母さんはぼろぼろ泣いて、

もっと早くに気づいてあげられなかったことを謝った。

ぼくは怒って、ののしってしまった。

 

ぼくたちはそれからよく一緒に書いた。

気晴らしにはなったけれど、でも、生活は変わらなかった。

だれしも全然信じてくれなかったのだ。

 

ABAの先生たちは、あなたはまちがっている、

とお母さんをつっぱねた。

これには深く傷ついた。

喜んでくれて、もっとうまくコミュニケーションをとる方法を

教えてくれるとばかり思っていたからだ。

 

ぼくはこの人たちと一緒にやっていくのをやめた。

 

学校はなにも変わらなかった。

先生はぼくのことを疑っていた。

最悪の気分だった。

お母さんは科学者であるお父さんさえ説得できなかったので、

ぼくはすごくさびしかった。

 

ぼくはお母さんとしかコミュニケーションができなかったので、

腹が立ってしかたなかった。

お母さんはぼくの不満の矛先になったけれど、耐えてくれた。

 

そんなときソマ先生と出会った。

ソマがぼくの人生を救ってくれた。

 

彼女はかしこい人間を相手にするように話しかけてくれた。

段階を追ってコミュニケーションのしかたを教えてくれた。

彼女が助けてくれたことに一生感謝する。

 

ABAの先生は、頑としてぼくを信じようとはしなかった。

ぼくがソマと一緒のところを観察して、

これは「プロンプト」

(自閉症者が作業に集中できるように指導者が与える手助け)で、

「この子はほんとうにコミュニケーションしているわけじゃない」と考えた。

 

ぼくもあの人たちのことが大嫌いだった。

あの憂鬱なころのことは思い出したくもない。

 

でも、徐々にひとりでできることが増えてきて、

お父さん、そして学校などで支えてくれていた人の中でも

疑いがうすらいできた。

 

いまではぼくが知的でユニークな人間だとみんなが知っている。

 

ぼくの中に真実を見つけてくれたお母さんに、

そして目を開いてくれたお父さんにも感謝を。

 

もう、ものいわぬ少年ではないぼくを、

この不思議な世界に導いてくれた両親がいてくれて

ほんとうに幸運だ。

 

(中略)

 

アグラクシア(失行)とは

電話回線がうまくつながらないような症状のことで、

これのせいでぼくにはしゃべるのがむずかしい。

 

考えていることが口に行くまでの途中で

迷子になってしまうのだ。

 

たとえばレストランで、ほんとうはチキンを食べたいと思っているとする。

だけど、「ビーフを食べたい?」と聞かれたら、

口が勝手に「うん」といってしまう。

 

自分で答えたとはいえ、ほしかったのとはちがう料理を

がまんして食べなきぉならないので、いらいらする。

自分の口に驚かされ、それに従わされるという感じだ。

 

イエスかノーかの質問でない場合、もっとむずかしい。

思っていることがまったく外に出てこないのだ。

 

(中略)

 

ぼくは本のページをぜんぶ頭の中で「見る」ことができる。

十年前のことも決して忘れない。

 

なのに、着替えを最後まですることを覚えていられない。

 

ぼくは本や会話を、細かいところまで覚えすぎている。

これには参る。

いらないことで頭がいっぱいで、

ひと言いわなきゃならないときに出てこないからだ。

 

ぼくの知識は口に向かう途中でブロックされているみたいだ。

 

ぼくたちだって考え、理解している。

でも、ぼくたちはただずっとすわって、手をぱたぱたしたり、

わけのわからないことを口走ったりしてしまう。

 

だから知的障害だと思われるのだ。

知的障害のある自閉症者もいるかもしれないけれど、

みなさんが考えているほど多くはない。

 

ぼくたちが知能テストで失敗してしまうのは

「出力障害」のせいだ。

内側で考えていることを正しく外に出せない。

出口を見つけた自閉症者はごく少数だ。

 

ぼくの考えは口にたどり着くまでに迷子になる。

 

でも、ありがたいことに文字盤を指すときには迷子にならない。

頭の中、つまり脳はぼくたちがまだ理解できていない世界だ。

 

まだだれも自閉症を神経学的には解明していない。

だから確実な治療法はまだない。

 

(中略)

 

問題は、他の人がぼくの恥ずかしがり屋の部分を

どう解釈するかだ。

ぼくの場合、専門家たちはこう決めつけた。

 

「この子は自閉症なので社会性がない。

人よりもモノのほうが好きなのだ」

 

大きな誤解だ。

 

想像してみてほしい。

思いどおりに身体を動かせず、

不安のせいでまひしたようになって

沈黙の世界に閉じ込められている状態を。

 

こんな状態でいるときに

「引きこもり」なんて意味をなすだろうか?

 

なぜ先生たちは

「この子は他人に興味がない」と判断したのか。

 

「行動の理由」ではなく、

「外に現れた行動」しか見ていないからだ。

 

でも人が引きこもるのには、恥ずかしさ、きまり悪さ、

悲しみ、コミュニケーションの問題、不安など

さまざまな理由がある。

 

そしてこれはふつうの人たちにもいえることだ。

 

「シャイな人は人間よりもコンピューターや本を好む」

なんていえないはずだ。

コンピューターや本は気持ちを傷つけないので安心できるというだけだ。

 

自閉症の人がスティムにふけって自分の殻に閉じこもったり、

隠れたりするのもこういう理由からだ。

 

解決策は忍耐、愛情あるサポート、

そして自閉症者を受け入れて尊重することだ。

 

(中略)

 

二〇〇八年の北京パラリンピックの再放送を見た。

心をゆさぶられた。

 

アスリートたちは身体が引きしまり、速くてタフだ。

足や腕がない人もいるし、身体が変形している人もいる。

人生を完全に変えてしまった事故にあった人も多い。

 

でも自分を憐れんでいる人なんてひとりもいない。

 

「わかった。ぼくは片脚を失った。

じゃあ、脚一本でなにができるだろう?

ぼくは一本脚のアスリートだ」

と彼らはいう。

 

片方の脚を失ったスプリンターを見た。

ジム・ビゼルという選手だ。

彼はすごく速く、誇らしげに走った。

そして二着だったけれど意気揚々としていた。

 

それを見ていて思った。

ぼくはいったい何年、自分を憐れんですごしてきたことか―――。

 

頭の命令に従わない自分の身体が大嫌いだった。

身体にいうことを聞かせるのは至難のわざなので、

何度もあきらめたし、今後もむりだと思っていた。

 

「試練に負けない」というのは、どんなに厳しいことだろう。

自己憐憫にひたりながら

ソファでテレビを見ているのはなんとかんたんなことだろう。

 

ぼくも自分の身体に取り組むことはできる。

ふつうの人以上に練習しなきゃならないけれど、

がんばれば走れるし、泳げるし、スケートボードもできる。

 

ひとつ大事なことをつけ加えたい。

 

これまでの自閉症教育は、ぼくたちの障害や

「できないこと」にばかり焦点をあててきたということだ。

 

どんなに努力しても、ぼくの身体ではできないことがある。

 

たとえば、今後も歌を歌えるようになるとはとても思えない。

口で自由に会話をすることにさえ手は届かないと思う。

 

だけど、かわりにぼくには他のことができる。

考えられるし、文字盤を指したりタイプしたりすることはできる。

こういう能力をもっと磨いて、もっと自立することはできる。

 

もししゃべることだけに焦点をあてられたら、

ぼくは身動きがとれなくなってしまう。

 

だってそれは「能力」じゃなくて、「できないこと」だから。

 

それはできないけれど、

腕を鍛えることで「できること」を強化している。

 

身体障害の場合は傍目にもわかりやすいけれど、

自閉症の場合は神経系統の問題なのでわかりにくい。

 

ぼくは戦う決意をした。

 

ぼくの「できないこと」はそっとしておいて、

いまは「できること」に磨きをかけ、

増やしていく、と。

 

(中略)

 

人生、なにが起こるかを予見するのはむずかしい。

人生に期待するのはさらにむずかしい。

 

なんの前ぶれもなくひどいことが起こることもある。

だから毎日を贈りものをもらったように暮らすのがよい。

 

ぼくは障害者で、しゃべれない。

けれど、幸運なところもある。

 

すてきな家族がいる。

多くの人に気にかけてもらっている。

コミュニケーションしたい、学びたいという自由意志がある。

ぼくは自然の中へ、音楽の中へ入っていける。

神様は毎日ぼくに呼吸させてくれている。

 

小さな奇跡が積み重なって大きな贈りものになる。

 

与えられた贈りものを自覚しながら暮らすことが、

悲しみに抗う武器となるのだ。

 

しょっちゅう悲しんでばかりいる人は、

与えられた幸運にフォーカスしてみてほしい。

 

ぼくはおいしいものが大好きだから、

料理を楽しめる味覚があってラッキーだ。

水が大好きだから、泳げてラッキーだ。

音楽も大好きで、毎日音楽を楽しんでいる。

 

自分の病気にばかりフォーカスして、

みじめな気持ちでいるべきだろうか?

いや、決してそんなことはない。

 

ぼくたちは人生をよりよくできると信じて、

人生を選ばなければならない。

 

人生をだめにするのはかんたんで、

よくするのはむずかしい。

 

でももし、ぼくたちの人生が神様にとって大切なものだとしたら

―――そうだと信じている―――ぼくたちには他人だけでなく

自分自身にもやさしくする義務がある。

 

人生に一度だけチャンスがあるのだとしたら、

困難なことがあってもベストをつくして生きたほうがいい。

 

 

 

2016年12月4日(日)

 

【編集後記】

この本を読んで励まされない人はいないでしょう。
また、自分の生き方や見識のなさを恥じる人も少なくないでしょう。

私早川もその一人でした。

イド・ケダー君は、自閉症クラスを出て普通学級で学び、
高校を卒業するときは、クラスで4番目の成績だったといいます。

今は大学で勉強をしています。

自閉症が精神障害でも学習障害でもなく、

運動能力の障害であることを証明したわけですね。

 

このことが、どれだけ世界中の自閉症者とその家族に

希望と勇気を与えたのか。

 

心から敬意を表するばかりです。

 

 

 

ではまた来週!

今週も素敵な一週間をお過ごしください。

 

本日も最後までお読みいただきまして、

ありがとうございました。

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