早川勝メール【761号】僕の命は言葉とともにある 9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと

2015-08-23

 

最近、Facebookを使っていると、
「過去の思い出を振り返ってみましょう」
というお知らせが自動的に入ります。

2年前の今日、3年前の今日…、
どんな投稿をしたのか、誰と友達になったのかを、日々、伝えてくれます。

2年や3年という月日はあっという間でもあり、
遠い遥か昔のことようにも感じられます。

そんな懐かしい“過去の自分”を振り返りながら
平穏な「今」の幸せに感謝する今日この頃。

その投稿記事の中におきまして、
盲ろうの福島智先生を思い出し、
この夏、新しい著書を熟読する機会を得ました。

改めて、凄い衝撃を受けました!

あまりにも深く学ぶことが多くて……、
大きな影響を受けた私は
ついには、福嶋先生が「夢」の中に出て来るほど…。

夢の中とはいえ、 福嶋先生と2人きりで
居酒屋へ飲みに行くシーンというのは、実にリアルでした。

目が見えない、耳も聞こえない福嶋先生に対し、
私は、メニューを見せてオーダーの相談をし、
一方的に延々と近況報告をしているのです。
福嶋先生は、「うん、うん」と笑顔でうなずいてくれていました。

夢から覚めて、私は恥ずかしくなりました。

「相手が見えていない」のは、私のほうじゃないか、と。

これはきっと、自分しか見えていない私の…
日常的な「コミュニケーション」の姿に違いない、と。

猛省した休日の朝となりました。

 

 

と、前置きはこれくらいにして、

メインコンテンツに入ります。

今週も、625冊目のお薦め書籍の中から、
ためになる一節を抜粋し、ご紹介いたします。

本日のテーマは、
【生きる意味】
です。

お役に立ちましたら幸いです。
それでは、どうぞ!
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私の本よりためになる「お薦め書籍」シリーズ No.625
「僕の命は言葉とともにある 」
9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと
米国TIME誌が選んだ「アジアの英雄」福島智氏初の人生論
福島智 著
致知出版社

 

盲ろうの世界は
宇宙空間に一人だけで漂っているような状態だといいました。

しかし、それは単に見えない聞こえない
という状況を説明しているだけでなく、
自分の存在さえも見失い、認識できなくなるような状況で
生きていることをも意味しています。

周囲の世界が徐々に遠のいていき、
自分がこの世界から消えていってしまうように感じられるのです。

その真空に浮かんだ私をつなぎ止め、
確かに存在していると実感させてくれるのが他者の存在であり、
他者とのコミュニケーションです。

つまり、他者に対して照射され、
そこから反射して戻ってくる「コミュニケーションという光」
を受け止めることによって初めて、
自分の存在を実感することができる。
他者とのかかわりが自分の存在を確かめる唯一の方法だ、
ということです。

ところで、目が見えず、
耳も聞こえない私が
他の人とどのようにしてコミュニケーションを取るのか
不思議に思う人も多いでしょう。

それは耳が完全に聞こえなくなった高校二年生の終わり頃、
一九八一年の三月、母のふとした思いつきによって解決しました。

(中略)

また、そのとき私は
特定の信仰を持っていたわけではありません。

ただ、何ものか、
超越者とでもいうべき大いなる存在がいる
という想定をしないと、
私たちの存在は説明できないだろうとは
漠然と考えていました。

これは「なぜ宇宙があるのか」と問われたときに、
今の科学では誰も本質的には説明できないことに
似ているかもしれません。

最終的には、「説明できない存在が存在する」
という一点で、
科学と宗教は接続するのではないかと思います。

とにかく、その当時は
「そもそもなんで自分が生きているのかわからない」
という気持ちが強かったのですが、
少なくとも自分が生きていると、
自分が思っていることは確かであり、
さらに生きていると言っても
自分の力で生きているのではない
ということは自覚していました。

宇宙の中で自分が存在しているのは
自分の力によってではない―――。

そう考えると、自分が経験する苦悩も、
自分の外部のどこかから
「降ってきた」ようなものだと思うことができました。

そう思うことによって、
その降ってきたものをまず受け止めて、
そのうえでどう生きるかが問題なのだろうと
意識を転換しました。

同時に、おそらくそこにしか自分の生きる道はない、
自分の気持ちを落ち着かせ、
納得させて生きる方法はそこにしかないだろうと思ったのです。

その結果、私は自分の使命を考え、
それを受け止めよう
という気持ちになったのではないかと思います。

(中略)

こういう私の姿を見て、
「勇気が与えられる」「すごいですね」
と言ってくださる方がおられるのはありがたいことですが、
それは買いかぶりです。

私は「盲ろう」という極限状態に放り込まれたので、
その中で闘うしかなかったわけで、
もし環境条件が穏やかで平凡なものであれば、
私もごくごく平凡な人間だったと思います。

私は生来楽天的で前向き思考の人間だ、
と一応自分では思っているのですが、
それもよくよく考えると
本当にそうなのかどうかわかりません。

前向きなつもりでいても、
いつのまにか横を向いたり
斜めを向いていることもよくあるような気がします。

そして、ふと気がつくと
真後ろを向いていることもないとはいえません。

ただし、そういうときには私なりの作業があります。
もし自分が後ろを向いてしまったなと思ったら、
へたに動かないことです。

進むべき方向がはっきりするまで、
あるいは進むためのエネルギーが満ちてくるまで、
じっとそこで埋伏しながら待機するということです。

もう一つあります。
どうしても後ろ向きになってしまったら、
そして、どうしても直接には前に進めない、
という状況になったときは、どうするか。

そのときは、「後ろ向きになったまま、後ずさりする」
という裏技があります。
こうすれば、結局、ゆっくりですが、
前進することになります。

つまり、自分の状態は全体としては後ろ向きだし、
はなはだ消極的ではあるのですが、
まあ、自分自身をだましだまししながら、
そろそろと「後ろ向きの後ろずさり」をやっているうちに、
結果的に少し「前向きに前進」したことになりますので、
そこで、おもむろに体をひねって回れ右すれば、
めでたく前向きになる、というイメージです。

もっとも、これは私が考案した裏技イメージなのですが、
実際には私自身、なかなかそううまくはいきません。

まあ、これくらいのしたたかさを持てるようにしようと、
日々自分に言い聞かせています。

(中略)

私は十八歳のとき、約三ヵ月で盲ろう者になったわけですが、
その過程の最初の頃は
「なんで俺だけ目が見えなくなって、
しかも耳まで聞こえなくならなあかんのや」
と思っていました。

けれど一ヵ月ほど経過して、
もう一歩進んで考えてみて、
見えないとか聞こえないというのは
生きているから生じることじゃないかと気づくのです。

それ以来、
「じゃあ、そもそも生きている、
この命があるということはなんなんだ」
と考えるようになりました。

すると、それは非常に不思議なことだと思い至ります。

なんで私が生きてきた(生きている)のかわからないのです。

両親から生まれたのは確かでしょうが、
そもそも私という人間がいて、
私という意識があるというのがすごく不思議です。

そして、それは奇跡的なことなのではないか
と思うようになりました。

そう考えたときに一つだけ言えることは、
私は自分の力で存在しているのではない、
ということです。

私自身は「私」という存在自体の原因になっていない。
つまり、私の存在という結果を生み出した原因は
私ではないのです。

では、何が原因なのかと言われるとわからないのですが、
少なくとも私ではない何ものかが
私という存在の背後に存在しているのだろうと感じました。

それは多くの場合、神、
あるいは宇宙などと呼ばれるものでしょう。

とにかく私という存在を生み出した原因は私ではなく、
なんらかの大いなる存在です。

このように考えてくると、
私が見えないとか聞こえないとか、
あるいはいつまで生きるのか、
いつ死が訪れるのか
というようなことは自分ではコントロールできず、
自分ではわからない。
それがぼんやりと感じられました。

そこで、そのとき経験していた苦悩は
大いなる存在が与えたものなのだから、
それにはなんらかの意味があるだろうと、
当時の私は自身に言い聞かせていたのでした。

こうした私の、いわば苦しまぎれに閃いた考えを思い出すとき、
ヤスパースのいう、限界状況で超越者の暗号に出会うという主張が、
不思議に符号するのを感じて、
私は胸が熱くなるのです。

(中略)

フランクルは、次のような公式を示しました。

「絶望=苦悩−意味」

これは、苦悩と絶望が同じものではないことを示しています。

絶望と異なり、苦悩には意味がある、
ということです。
第一章では、ここまで紹介しました。

ところで、この公式は、
方程式のように左辺と右辺の「移項操作」をすると、
さらにそのすごさが分かります。

例えば、今の公式で「意味」を左辺に移項して、
「絶望」を右辺に動かすと、

「意味=苦悩−絶望」
となります。

これだけではまだよく分からないので、
ここからさらに、考えを進めてみようと思います。

「絶望」の反対語を「希望」だとすれば、
「マイナス絶望」とは、
すなわち「希望」だと考えられます。

したがって、
「意味=苦悩+希望」
という新たな展望が開けるのではないでしょうか。

つまり、苦悩の中で希望を抱くこと、
そこに人生の意味があるのだと思うのです。

 

 

2015年8月23日(日)

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早川勝
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