早川勝メール【675号】『「思考」を育てる100の講義「考える余地 」は、いつでも無限にある』

2013-10-06

 

先日、人間学を学ぶ月刊誌「致知」の
創刊三十五周年記念パーティーが
東京・ホテルオークラで開催されました。

記念講演の講師は、
先週このメルマガでも書籍をご紹介させていただいたばかりの
京セラの創業者にして日本航空を再建された稲森和夫氏。

「運命的な出会いが人生をつくる」

人生の真理を説かれました。

そして、シンポジウムの顔ぶれが、
これまたかなり豪華で…、

アサヒビール名誉顧問・中條高徳氏、
上智大学名誉教授・渡部昇一氏、
文学博士・鈴木秀子氏、
筑波大学名誉教授・村上和雄氏、

というめったにお目にかかれない方々より、
「人間学が日本国民を救う」 とのお言葉を頂戴しました。

さらに、パーティーのご祝辞では、
文部科学大臣の下村博文氏より、
「〝道徳〟の授業を〝人間学〟と変更すべき」
とのスピーチをいただき、会場は拍手喝采。

その後、発起人を代表して、
アサヒグループホールディングス相談役・福地茂雄氏からは、
「致知は〝徳育〟という問題を頑なに守り通している」と、

JEEホールデスングス相談役・數土文夫氏からは、
「読者が致知に信じられないほどの信頼を寄せている」と、

SBIホールディングス代表取締役・北尾吉孝氏からは、
「致知は三十五年はおろか、これから百年、二百年残る雑誌になる」と、

錚々たる顔ぶれの方々からの素晴らしいご祝辞でした。
私からすれば、「超・雲の上」の方々ばかりです。

来場された千四百名の方々の中にも、
メディアでお馴染みの有名な皆様が一同に勢ぞろいされており、
改めて「致知」の偉大さを実感したしました。

「致知」の読者が十万人になったら、日本は変わる――。

森信三先生のこの言葉を羅針盤とし、
数多くの愛読者に支えられてきた月刊誌「致知」は、
今年7月、ついに「十万部」を突破したとのこと。

ん?
むむっ?

ということは、
なんと、
私早川勝のインタビュー記事が掲載された「7月号」が
その記念すべき「十万部突破号」だったのか…。
http://www.chichi.co.jp/monthl……index.html

おお〜(驚)

と、勝手に誇らしい気持ちになり、
しみじみ感動いたしました。

もちろん私が何か貢献したというわけではありませんので、
恐縮しつつも…、
そのような「日本が変わる歴史的瞬間」に運良く関われたことについては
僭越ながら大変光栄なことだなあ、
と、改めて感激している次第でございます。

ありがとうございました。

人間学を学ぶ月刊誌「致知」の
今後ますますのご発展をお祈り申し上げます。

http://www.chichi.co.jp/person.html
(致知には、こんな方たちも掲載されています)

 

 

と、前置きはこれくらいにして、
それでは、
メインコンテンツに入ります。

本日も、新たに「550冊目」のオススメ書籍から
抜粋した「なるほど!」という一節をご紹介します。

本日のテーマは
【やらなければできない】
です。

お役に立てれば幸いです。
↓↓↓
私の本よりためになる「お薦め書籍」シリーズ No.550
『「思考」を育てる100の講義』
「考える余地」は、いつでも無限にある
森博嗣著
大和書房

4/100
歩き始めるまえが、一番疲れている。

僕は、もの凄く面倒くさがり屋だ。
ほとんどのことに対してやる気がない。
だから、なかなか腰が上がらない。

子供のときからそうだった。
一つだけ言い訳をすると、
やるまえから、だいたいどうなるのかわかってしまうので、
あれこれ考えているうちに、やっても得られるものが少ないな、
と判断してしまうのである。

それでも、なにもやらないと、
世間からの風当たりが強くなることを子供のときに学んだ。
世間というよりは、親とか先生である。
たとえば、算数の計算をしなさい、と言われて、
目の前の問題に答えを書いていくときだって、
そんなことをしても、僕はなにも面白くないし、
賢くもならないし、時間の無駄遣いだよなあ、
と思うわけだけれど、やらないと先生が怒るから、
つまり、先生を喜ばすためのサービスとしてやるわけである。

計算は誰にも負けないくらい速かった。
でも、そんなことで褒められても嬉しくない。
たとえば、体重が一番重いから褒められても嬉しくないのでは?

しかし、嫌々でも、その作業をスタートすると、
けっこう集中してやれることを学んだし、
やってる最中に、いろいろほかのことを思いついたりするのも、
自分としては面白かった。

つまり、頭が回っていると、その副産物が生まれるらしい。

今でも、僕は相変わらず面倒臭がり屋である。
それにもう親も先生もいないし、
仕事関係でも上司というような存在もないから、
誰も僕を叱らない。

だから、自分で、「やりなさい」と命令して、
いやいや腰を上げるのである。

そうすれば、命令した自分の顔が立つので、
その自分にサービスしているわけだ。

それで、やり始めると、わりと集中できて、ことが運ぶし、
それにやはり副産物が生まれるので、
あとになってみると、これが興味深い。

だから、やらないよりはやった方が良い、
という法則が確実視されることになる。

だいたい、こんな力学で、僕は生きているようである。
犬の散歩に毎日出かける。
早朝は、真冬だとマイナス二十℃くらい寒い。
全然やる気はない。
眠いし、なんだか躰が疲れていて重かったりする。
犬たちは行く気満々だが、僕は散歩にいってもメリットはないのである。

まあ、しかたなく出かけるのだけれど、
歩いているうちに、だんだん歩くのが楽になり、
帰ってきたときには、案外気持ちが良くなっている。

考えてみたら不思議だ。
歩くほど疲れるのが、物理的というか肉体的な傾向のはずなのに、
実はこの逆に感じられることが多い。

しかも、ほとんどのチャレンジにこれは共通している。

やり始めるまえが、最も道が険しく見えるのだ。

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やればできる、という台詞は、言えば言える。

「やればできる」と先生が言う。
僕も、自分の本で、それに近いことを書いたことがある。

けれど、僕が言いたいのは、
「やればできる」ほど断定的ではない。

もう少し正確に書くと、「やらなければできない」である。
これは正しいと思う。

ただ、「やってもできない」ことはある。

ただ、「やらないとできない」場合よりは確率が低い、というだけだ。

しかし、だいたい「やればできる」という言葉は、
できたときに、使われることの方が多い。

良い結果が出たあとで、
「やればできるじゃないか」と褒めるのである。

褒めているように見えるが、もう少し分析すると、
「今までできなかったけれど、今回はできたな」
という気持ちが表れていて、さらには、
「お前には無理だと思っていたけど、そうでもなかったな」
といった、「見直したよ」感が滲んでいるのだ。

ここが少しだけ、「上から目線」かもしれない。
僕は、上から目線というものが悪いとは思っていないけれど、
人を見下すようなことは好きではないので、
この差は難しいところである。

初めてなにかができたとき、
「やればできるじゃないか」と言われるのだが、
べつに、今までだってやらなかったわけではない、
何度も挑戦したのにできなかったのだ。

それだから、「やれば」なんて言われることが、
とても心外である場合も多い。

僕は、子供のときによくそう感じた。
しかし、なんとなく嫌いだから食べなかったものを初めて食べてみた、
というような場合には、
「食べれば食べられるじゃないか」と言われても、
まあそのとおりである。
これは正しい。
何故なら、「食べたのに、食べられなかった」という現象がないからだ。

あるとしたら、
「少し食べたけれど、全部は食べられなかった」くらいだろう。

たとえば、走れば走れるし、歩けば歩ける。
つまり、それをすれば、そがをできたことになる動作は多い。

少しでもすれば、少しはできるのだ。

でも、生きれば生きられるかというと、
常にできるとは限らない。

では、考えれば考えられるか。
考えることが難しいものはあるけれど、
それを考え始めることができないなんてことはない。
少しくらいなら誰でも考えられる。

ずっと考え続けることができなかったり、
深く理解するところまで到達しないだけである。

そういう意味では、
多くの人が「考えても考えられない」状態にあるともいえる。

少なくとも、どんなものでも、
書けば書けることはまちがいない。

 

 

2013年10月6日(日)

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早川勝

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